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2011年 12月 19日

Badde Salighes バッデッ・サリゲス

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1863年6月にイタリア・イギリスの共同出資による会社サルデーニャ鉄道ロイヤルカンパニーがロンドンで設立され、1880年にサルデーニャで最初の鉄道主要幹線路の開通式が行われた。

サルデーニャは古代からいろいろな民族からの侵略を幾度も受けながら、そして異国の文明を取り入れながら島国として成長してきた。
いつの時代でもいかなる場所においても異なるものを受け入れ国は絶えず発展向上して行く。
今でこそ毎年バカンスシーズンになるとバカンス先の候補地には必ずサルデーニャ島が挙がるほど、サルデーニャ島の海の美しさはすでに世界中の人が知るところ。
これにはアラブの王子アガ・ハーン4世がサルデーニャ島のガルーラ地方北東地域に1960年代に高級避暑地を創設したことによってサルデーニャ島の入江の美しさを世に知らしめ、サルデーニャ島の観光事業の発展に貢献したことは
もはや言うまでもない。

1800年代サルデーニャ島は高度経済成長時期を迎えていた。いろいろな分野の産業の発展と共に、島の陸地の交通網を充実させる必要性にいち早く目を付けたのが英国はウェールズ出身のエンジニアBenjamin Piercy ( 1827 – 1888) (ベンジャミン・ピアシー)だった。

c0223843_2393077.jpgBenjamin Piercy はイギリスで土木工学を専攻し、卒業と同時に
Benjaminの父親と兄ロベルトと共にすぐに働き始め、イギリス、フランス、スペイン、インド、南米等の鉄道設備の設計を手掛けてきた人である。

Benjamin Piercy はイタリア統一後の翌年1862年にサルデーニャに鉄道を敷くことを宣言し、さらにその翌年にはサルデーニャ鉄道ロイヤルカンパニーという共同出資の会社をロンドンで設立し、1865年の2月にサルデーニャ島に到着した。
まずはCagliari(カリアリ)- Decimomannu(デチモマンヌ)間が1871年に開通し、これを皮切りに島の鉄道交通網は1880年までに整備されていった。
特に興味を引いたのがSassari(サッサリ)方面、Olbia(オルビア)方面へと結ぶ線路の接続地点としてOzieri(オツィエーリ)-Chilivani(キリヴァーニ)駅が設けられ、Chilivani(キリヴァーニ)という村が
Benjamin Piercy のよって創設された村であったことである。

   Benjamin Piercy

Benjamin Piercy は1870年には居住のベースをイギリスからサルデーニャに移し、まずはカリアリに居を構えながら、
1879年から1883年の間にヌーオロ県にある標高約1000mほどの高地Badde Salighes (バッデッ・サリゲス)の3700haもの土地を買占め、家族の住む屋敷とイギリス式庭園の建造と共にBenjamin Piercy は企業家として新たな事業を企てるのにこの高地でさらなる先見の明と天賦の才を発揮していくことになる。
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Piercy(ピアシー)一族が住んでいたお屋敷はBenjamin Piercy の3代目の代になるとVera Piercyによって民間に
売却されるが、屋敷は長い間放置されるがままになり無残にも老朽化し、そこでBolotana(ボロータナ)のコムーネが見るに見兼ねてすべてを買い取り、2007年に屋敷は全面修復され、イギリス式庭園も現在は州の自然公園として登録されている。
おそらくサルデーニャ出身者であってもBenjamin Piercy の名前を覚えている人は少なく、鉄道の開通をはじめ、農牧業の分野でも合理的で近代的な所業を成し遂げ、サルデーニャの農牧業を進化へと導き発展にまで貢献したウェールズ出身のエンジニアBenjamin Piercy もやはりアラブの王子アガ・ハーン4世と同様にサルデーニャにとって決して忘れてはならない人なのである。




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2007年に全面修復されてからのピアシーのお屋敷。4裂片状からなるイギリスのコロニアル様式の館で、ピアシー一族が過ごしていた時代にはサルデーニャには盗賊が頻繁に出没していて、このため館は防備する目的を第一に考えての造りになっている。
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天井のフレスコ画と壁を装飾するボワズリー(板張りの壁)がアンティークさを物語っている。左側にある小さな部屋は4裂片の一つで外観からの写真でも映っているように異常に細く縦長の窓が銃眼の役目をしていた。
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標高約1000mほどの高地なので冬は厳冬で各部屋には暖炉が設置されている。
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ピアシーのお屋敷は常時公開されているが、意外に内部を訪れて見ると何も無い事に気付く。それは長い間放置されていた時期に心無い人々が無断であらゆる調度品を持ち去ってしまったからだという。
以前の屋敷内部はこのようだったようである。
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写真からもわかるようにBenjamin Piercy は狩猟や馬が趣味でポロ競技にもかなり傾倒していたことでも知られていた。
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特にBenjamin Piercy はアングロ・アラブ(アラブとサラブレッドの混血種)にさらにサルデーニャに古くから存在する小型品種Sarcidano(サルチダーノ)とGiara(ジャーラ)2種と交配させ、アングロ・アラブ・サルドという速さと耐久性のある新たな血統種を導いたのである。

またBenjamin Piercy は畜産業にも異常なほどの関心を示して、遺伝的に異なる系統・品種の間で交配を行い、それによりおいしい肉質の家畜を育てたり、繁殖させることで品種の改良を試みていた。ムフロンと雌のヘラジカの交配をはじめ、牛、豚、羊、山羊とさまざまに試した。
またPadru Mannu にも農地を買占め、酪農工場、バター製造工場を殺菌する為の革新的で近代的な設備を整わせ、製造された製品をカリアリなどの都市に供給していた。Padru Mannu はその当時のサルデーニャ島で最も大きい農場経営を実現させていた。
Benjamin Piercy はある時期には島の半分の領地を所有していたと言われている。
彼の事業は合理性に基準を置き、近代的な設備と共に生産性と利益をもたらしたその当時においての革新的な実例であった。

サルデーニャの1800年代と言えば鉱山産業が最も栄えた時期でもあり、疑うことなくBenjamin Piercy も鉱山をいくらか所有していて、また近隣のエリアで有名な画家モディリアーニの父親フラミニオも鉱山業を営んでいて、彼等は鉱山業の営みを通して知り合いになったと言う。
そしてBenjamin Piercy と交流がありピアシーのお屋敷に足繁く通われた高名な人々の中でも最も親交のあった友人と言えば、800年代カプレーラ島に居を構えていたGiuseppe Garibaldi (1807 – 1882) (ジュゼッペ・ガリバルディ)が挙げられる。
Giuseppe Garibaldi Badde Salighes (バッデッ・サリゲス)のピアシーのお屋敷に幾度も招かれ、
Benjamin Piercy と共に狩猟や乗馬、ポロ競技を楽しんだといわれる。
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Badde Salighes (バッデッ・サリゲス)の自然公園の中に入るともうそこはサルーデニャではなく、イギリスやドイツの森の中にでも迷い込んだような錯覚に陥るほどである。
Benjamin Piercy は世界のあらゆる国の鉄道設備の仕事をしながら、サルデーニャに世界中の様々な種類の樹木や植物を持ち運んで、サルデーニャにすでに自生している植物相と一緒に植林に勤しんでいた。
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森の中にはトキワガシ、セイヨウグリ、セイヨウヒイラギ、セイヨウイチイ、カエデ、トネリコ等さまざまな樹木が生い茂っていて、珍しいところではヒマラヤのニオイヒバ、カリフォルニア州のローソンヒノキやモミの木、ヒマラヤスギ、アトラス山脈のシトロンの木、バレアス諸島のツゲの木等があり、自然公園の近くには木材見本、薬草図鑑、植物相標本などを備えた陳列館が在していていろいろと紹介されている。
Badde Salighes (バッデッ・サリゲス)には線路のまくら木のための製材所も設備されていたそうだ。
Benjamin Piercy がサルデーニャの人々からどれほど親しまれたいたのかといえば、実際はそれほど好意をもたれていたわけではなかったようだ。なぜなら鉄道のプロジェクトを実現させるために線路のまくら木となる木材をサルデーニャの豊かな森林から根こそぎ採伐していたのだから。
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こいうトンネルがいくつもあって何度も通り抜けていた私(笑)。
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時々樹木の間から差し込む木漏れ日がとてもやさしかった。
これだけ標高が高いと夏は涼しくて、Badde Salighes (バッデッ・サリゲス)にセカンドハウスを所有している人も結構いて、春先から夏にかけてはちょっとハイソでシックなコミュニティーが出来上がるそうだ。
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ところでBadde Salighes (バッデッ・サリゲス)とはサルデーニャ語でイタリア語で言えばValle dei Salici(柳の渓谷)という意味で、そういえばBadde Salighes (バッデッ・サリゲス)までの道程に弓形になだれかかった柳の木を数本見かけたけれど、昔にはもっとたくさん谷間を囲むようにあったのかもしれない。
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Benjamin Piercy が創設したChilivani(キリヴァーニ)という村には1921年に完成した競馬場があるそうだ。馬に対してひとしおの愛情を注いでいたBenjamin Piercy にとって彼の頭の中には競馬場の建設の構想もあったようで、彼が無くなってから33年後に実現したわけではあるけれど、これには彼の情熱と確固たる意思が実現へと導いたことは確かなのだと思う。いつかはChilivani(キリヴァーニ)の競馬場にも訪れてみたいと思う。
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時間が経っていることも忘れてしまうほど森の中をひたすら歩いていた。
12月ということもあり、日が暮れるのも早くBadde Salighes (バッデッ・サリゲス)を日が暮れだす前に後にしなければならないことを無念に思うほど気に入ってしまった私。どうやら私のお気に入りの場所のリストにまた加わってしまったようだ。
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たくさん生い茂っていたセイヨウヒイラギやモミの木と触れ合いながらも少し早いステキなクリスマス気分を味わえたと思う。




いつも訪問ありがとう。

by portocervo1962 | 2011-12-19 02:56 | Marghine


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