2011年 12月 08日
サルデーニャ島で唯一船舶の航行が可能なTEMO川の川岸沿いに築かれた村BOSA(ボーザ)は伝説によると、 ヌラーゲ文明時代の神話の神Sardus Pater(サルドゥス・パーテル)の娘Calmedia(カルメディア)がTEMO川岸に 辿り着き、この地に村を築くことを決めたという言い伝えがある。 確かにこの村の起源を遡ってみると、フェニキア人支配時代の紀元前9世紀頃の碑文には"Bs'n" と印されていて “il popolo di Bosa”(BOSAの民)とあり、フェニキアの時代には集団民族として存在していた事が資料として残されている。 またBOSA村の近くの谷間に無数に点在しているDomus de Janas (ドムス・デ・ヤナス)の地下墳墓やヌラーゲなどの古代遺跡からも新石器時代にはすでに人々が出入りしていたこともわかっている。 川のほとりに築かれたBOSA村は地中海沿岸文化の影響を色濃く受けながら、村の衰退・繁栄の長い歴史の歩みの中で 村の様々な神話的伝承や儀礼を繰り返しながら、神話や伝説が生きている社会が未だこの村には存在しているのである。 穏やかに流れる鏡のような川面に映し出される川岸沿いの風景やパステル色に彩られた家並みがまるで絵画のようであり、 それらは訪れた人々のイマジネーションをいつも駆り立てる。 ある人がTEMO川岸近くに築かれたBOSA村をガルシア・マルケスの長編小説「百年の孤独」の舞台と同じように 川のほとりに築かれた蜃気楼の村マコンドのようだと例えた。 いかにもありそうで、あたかも本当にあったような様々な伝説が語り継がれて来た川沿いの村はいつも幻想的な出来事に包まれているのかもしれない。 中世の時代には村を支配し栄えたMalaspina(マラスピーナ)の城を中心にパステル色の小じんまりと狭い家々が細い路地に中世の簡素な城壁を囲みながら立ち並んでいる姿がとても印象的である。 Malaspina(マラスピーナ)の城は1112年にロンバルト族の起源を持つトスカーナの貴族Obertenghi(オベルテンギ)の末裔の血を引くトスカーナはルッカの貴族Malaspina(マラスピーナ)侯爵によって建てられた。 Malaspina(マラスピーナ)といえば、イタリア古典文学の長編叙事詩、ダンテ・アルギエーリの「神曲」 L'Inferno(地獄編)や Purgatorio(煉獄編) の中でも歌われているCorrado Malaspinaの始祖としても知られている。 中世の時代、BOSA村はサラセン人たちによる海からの襲撃に悩まされていた。 人々は徐々に襲撃から逃れる為にSerravalleの丘の麓に向けて後退して言った。 この時、マラスピーナ侯爵はローマ教皇ヨハネス18世(?-1119)からサラセン人の襲撃から住人たちを自由にさせる目的の下、叙任を受けて海洋共和国ピサ、ジェノヴァの遠征隊と共にBOSA村に到着したのである。 1.ヌラーゲ居住区 2.Furra(フッラ)山 3.旧市街地 4.Malaspina(マラスピーナ)の城 5.人口のビーチの海水浴エリア 6.TEMO川 7.L'Isola Rossa(ロッサ島) 8.アラゴンの塔 9.灯台 古代にはロッサ島が在していたが、現在は波食棚のみとなり、後に防波堤とともに人口のビーチが作られた。 マラスピーナ城の保護を求め、海から2km離れた場所に集落を築いていったが、それでも村の過疎化は止まる事が無かった。 さらには度重なる大洪水が不衛生なマラリアをより拡散させ、村の状況は悪化の一途を辿っていた。 そして経済的困窮を示し始めたのもこの時期で、マラリア感染者が100人以上の被害者を出した事も含め、BOSA地元民の飢えと失意は1748年には頂点にまで達していた。 サヴォイア公国支配の時代には湿った空気をより澱ませるとして城塞も次第に取り壊されていった。 しかしこの頃から、BOSAの村は職人的な手工業の分野で著しい経済回復を示して行くことになる。とりわけ経済の重要な位置を占めていたのが皮なめし産業であった。 1800年代BOSAの皮なめし産業はイタリアをはじめフランスなどの外国においても輸出を伸ばし急成長した。 TEMO川の平らな水面に映し出されるSa Conzasがなんとも情緒があって美しい。 Sa Conzas(サ・コンザス)とはサルデーニャ語で皮なめし工場を指す。 Sa Conzasの建物の屋根の連なりが私は好きで、たとえばジェノヴァのマリーナにもやはりこのような形態の屋根が並んでいて、いつも海辺沿いの町に訪れると同じ様相を示した屋根を見つける度に一致性を見つけては一人楽しんでいる。 しかしながら皮なめし産業には大きな問題があった。とんでもない悪臭を放つのである。 なめしの工程は腐敗しやすい動物の生皮を加工する必要があり、また昔は犬の排出物を利用して石灰を除去したり、皮の弾力性を与えるのに大きな効果をもたらしていた。 伝統的ななめし技法から来る腐敗物の悪臭と有毒ガス、さらには皮なめし処理後の腐敗物を川下に捨てていたことから、この非衛生さは川の悪臭を増加させ、人々の健康を害するまでに及んでいた。 異常なくらい細分化されていたなめしの生産工程も近代的な機械の導入により、少数人数での家内工業の形態が定着し画期性はさらに増した。このため1834年に28の皮なめしの事業所が登録されていたのが1887年には15の事業所までに減った。 そして1877年水道橋の建造と排水溝が導かれた事によって村の悪臭は完全に改善された。 1942年、第2次世界大戦の最中BOSAもTEMO川を中心に被害を受け、いくらかのSa Conzasの喪失とともに1962年にはBOSAの皮なめし産業の活動も終焉を迎えることになる。 尚、1989年よりSa Conzasは国の産業遺産として登録され、現在は皮なめし工場の博物館として常時公開されている。 BOSAの重要な通り玄武岩の石畳が美しいVittorio Emanuele大通りは1500年代に敷かれたもの。 石畳の通りはTEMO川に平行に走っている。 噴水前にある粗面岩の縞模様の見事な館はDon Carlo Passinoの館で1860年代頃に建造されたもの。 一番下の写真は1800年代の貴族Deriuの館の内部が現在は博物館として公開されている。 オリジナルは12世紀に建造され、1809年にピエモンテの後期バロック様式に修復されている。 写真の一番左奥に小さく写っているのがロマネスク様式のSan Pietro(サン・ピエトロ)教会 少しローズ色の粗面岩が本当に美しい教会である。 尚、サン・ピエトロ教会の建つ地域はCalmedia(カルメディア)の名が変化して現在はCalameda(カラメダ)という名称で呼ばれている。 ボーザ出身のダニエラと話しているとこの手の類の伝説がいくつも語られる。 サルデーニャ島は伝統社会というものが人々の生活の中に密接に根付いていて、それは時としてある意味呪術的とさえ思えるときがある。 神話的伝承は繰り返すことによって、人々によってより絶対のものと信じ込まれていく。 ダニエラに聞いたら、ボーザの人々も解決すべき何か不可解な問題が生じれば、人々はそれを話し合うのに必ず広場に出向くと言う。 そして問題になっている事柄に対して解決する人が必ずいると言う。 マコンド村のように土砂降りの雨が降れば、BOSA村も盆地の地形のゆえ集落全域が浸水するという有様。 川のほとりに築かれた村はこうして語り継がれるべき伝説を継承しながらますます息衝いていくのだろうと思う。 いつも訪問ありがとう。
by portocervo1962
| 2011-12-08 08:40
| Planargia
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