2011年 08月 23日
海辺の暮らしを始める前までほとんど都会で生活していた私にとっては、海とは忙しい仕事の合間に休暇を取って贅沢なバカンスに出かけるという捉え方が強く、たかだか数週間の滞在で一過性のように過ぎ去っていく私のようなリゾート客にとっては海に対するロマンという前にいかにサービスの行き届いたホテルで快適に過ごし日頃の骨休みをしたいというのが先決だったなんだろうと思う。 そう海辺のリゾートと海辺の暮らしは全く意味合いが違う。海辺の暮らしとは海と人間の暮らしそのものがより密接な関係にある。 海辺の暮らしを始めて思ったことは、子供の頃から海辺での暮らしが身近にあり、両親と一緒に船で沖に出たり、自らヨットのセーリングを楽しんだり、または沖釣りに勤しんだりしながら雄大な海を真近に感じながらも海の寛大さや苛酷ささえもすべて甘受して、海へに対する果てしないロマンを抱いて育ってきた人が本当に多いということを感じる。 物心が付いた年頃から海洋文学といった冒険小説等に読み耽りながら、ひたすら海へ憧憬の念は永遠のものとなり、それは大人になっても変わらず楽しい時も辛い時も海を出て、果てしない地平線を追い求めながら海が投げかける問いに対して様々な人生の教えを享受していると語る人もいるほど、海の哲学というものが存在しているのもまた事実だと思う。 海辺の家の中にあるほとんどの人の本棚の中には必ず海に関する書物の背表紙の数々を目にするほど、海で過ごしている時間は船のキャビンの中や海辺の砂浜、または海が見渡せる家のテラスのデッキチェアーに横たわりしながら海の精神性を感じられる書物に時としてひたすら浸ってみたいと思うのはいったいなぜなのだろうか。 エメラルド海岸域で幅広く展開している本屋さん"Isola"(島)では、今年4月から9月の末まで、マッダレーナ島出身で現在ミラノ在住のマリン・ジャーナリストのValeria Serra(ヴァレリア・セッラ)の2009年に出版された 「le parole del mare」の著書とValeria Serra(ヴァレリア・セッラ)自身が作成した手作りの帆船の数々が書店店頭で展示即売されており、現在大々的に宣伝活動されている。 今年の4月に私の親友でポルトチェルボで雑誌の編集ディレクターをしているパオロからこのヴァレリアの本をプレゼントされた。 というのもパオロとValeria Serra(ヴァレリア・セッラ)は友達同士で彼等は何度も一緒に仕事をした間柄である。 「le parole del mare」は有名な250以上の小説・詩集の文節からValeria Serra(ヴァレリア・セッラ)の感性によって抜粋し編集されたもので、海についての精神性がたくさん詰まった著書である。 ヴァレリアは本当に海・船・言葉が好きな人なんだということがよく伝わってくる。私も読んだ好きな作家の文節もたくさん見つけられて、蒸し暑い日に長編小説はなんだかなあと思う時に気軽に軽く読めて、気になる文節があれば、またその本を再読したり、初めて出会う作家の文節であれば新たにその本を手に取って読んでみるのもおもしろいと思う。 Valeria Serra(ヴァレリア・セッラ)の海と本と船の成り立ちはいったいどんなものだったのだろうか。 私は7歳の時1つの船に初めて恋をした。それは島から島へと連絡する赤色と青色で彩られたフェリーだった。なぜなら自分が望めば何度も旅する事が出来るからという、それはしごく単純な理由からであったが、それからは区別なくしてすべての船が好きになった。 映画に出てくるような豪華客船から帆船、漁船、ヴェネツィアの水上バスまでとあらゆる船が好きになった。 また子供の無垢さ加減からすべての船が自分のものになった夢までもよく見るほどだった。 その当時の自分と同年代の女の子といったら、お人形と一緒にいかにもありそうなシーンを人形を手にしながら身振り手振りで演じ、それはまるで1つの小さな芸術に匹敵するかのように遊んでいたのが常であったが、私はといったら、その頃ちょうど ジェノヴァの有名な航海士で探検家のAntoniotto Usodimare(1416-1461)のストーリーに魅せられていた。 彼は1400年代にポルトガルの海軍Sagre王子の艦船(駆逐艦)に仕えていた。 探検家としてもよく知られていたUsodimareであったが大西洋で彼の形跡は途絶えてしまった。 Usodimareは未体験の針路上に流されて運ばれてきた流木のようにとても神秘に満ちていた人生だった。 海で見つけた木片や木ぎれを帆船のように見立て、就航のために必要な装備を子供の想像の世界で艤装して船を海に浮かべて、喫水線から流れに任すようにまるであたかも航海しているように1日中海辺で遊んで過ごしていた。一人の少女はお人形の世界よりも想像の世界に耽りながらマッダレーナ島の美しく深い藍色に澄んだ小さな海辺で放置される事を好み、それは今でも私にとって忘れられないほどの恍惚とした日々だった。 出発は何か1つの約束みたいな意味合いも含まれていて、自分のいろんな思いを急き立て、海の遥か彼方まで視線を向けて、実存する水平線を越える。 "PARTIRE"はイタリア語で出発するを意味する自動詞だけれど、それは何も文法だけの意味合いだけではなく、戻りの無い片道だけの針路に向かって自ら船首を向けることも意味する。 20歳の私はまったくコンラッド・シンドロームを引き起こしていた。ポーランド生まれのイギリスの小説家ジョセフ・コンラッドは海に憧れ、フランス船に船員として乗り込んだことでも知られている。 私はコンラッドの作品の数々を読み耽った。本のページを指の腹でなぞりながら自分の人生を重ねると共に大西洋に向けて出発するという想いは膨らむばかりだった。それはいたってシンプルではっきりとしたまったく取り違えようの無い症状だった。 大西洋は私にたくさんの示唆と問いを投げかけた。 私は今までに世界中の海を見てきた。そのたびに果てしなく無限に続く地平線で繋がる海がまるで自分の家のようにいつも感じた。 この私の中に雑然と刻まれている無数の海の思い出はまるで決して消す事の出来ない青色の刺青のように私の中にいつも宿っている。 物や言葉はいずれ使い古され、消耗していくけれど、消耗された物や言葉は時には使い手によってほころびを繕い、うまく継ぎ合わされていく事で、またそれらは新たに本来の輝きを取り戻し、生き返る。 私にはそれが見えて、ただ、それらを拾い集めるだけ。 (Valeria Serra) これって偶然だったのだろうか。。。。 TO LOVE AGAIN いつも訪問ありがとう。
by portocervo1962
| 2011-08-23 03:23
| Personaggi Sardi
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