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2011年 03月 29日

Gallura 西海岸2 詩人Faber

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1962年、アラブの王子アガ・ハーン4世を筆頭に貴族や財閥家たちによって創設されたエメラルド海岸協同組合が
すぐにL'Hotel Cala di Volpeの着工に取り掛かっていたと同時期にガルーラ地方の西海岸に位置する
Portobello di Galluraから南へと入江沿いに3kmにも渡る広大な土地を購入して自分の描くプロジェクトの下、ヴィラージュを建設し西海岸にもリゾート地を築こうとしていた人がいる。
Carlo Emanuele TiscorniaTiscorniaはイタリアの北部は地中海に面するリグーリア州のジェノヴァ出身のエンジニアで彼もまた1年の半分はジェノヴァ、半分はサルデーニャで過ごしながら2003年に逝去するまで、サルデーニャに終身
魅了され続けた人であった。
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Tiscorniaはエンジニアらしく外観装飾よりも合理性・機能性に一貫してこだわった人で、実際に彼の設計したヴィラに訪れてみるとエメラルド海岸に点在しているヴィラのような美しいアーチを描いたアーティストっぽい曲線美こそあまり見られないが、いたってシンプルで生活する上での機能性・利便性が前面に押し出されていることがよくわかる。

Portobello di Galluraのヴィラージュはどちらかと言うとポルトチェルボのように派手に着飾ったり、富をひけらかしたりすることを好まず、控えめで目立たない態度を好むようないわゆるLow Profile的な嗜好の人が集まり、特に60~80年代にかけてはその傾向が強かったと聞いている。
特にリグーリア州からの人々が多かった時代、イタリアの70年代のイタリアフォークを代表する社会派シンガーソングライターでジェノヴァ出身の故Fabrizio De André (1940-1999)の家族もPortobello di Galluraの海辺に近いヴィラを60年代の後半に購入している。

Fabrizio De André には幼少の頃から農夫をするという夢があった。彼は音楽活動をする傍ら、サルデーニャのガルーラ地方の片田舎で自分の夢の実現と新しい生活を始めるために、1976年頃農場経営の会社150haの領地アグリツリーズモを購入し、リグーリアのジェノヴァを後にする。
そしてFabrizio De André はサルデーニャで暴力と平和を見つけることになる。









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Torre di Vignola(ヴィニョーラの塔)スペイン支配下時代のアラゴンの塔(1572年建造)(1984年再修復済)

Vignola(ヴィニョーラ)、Portobello di GalluraはコムーネAglientu(アリエントゥ)の分離集落でこのあたり一帯の
入江は起伏が激しく、険しく切り立ったごつごつとした岩礁や河水によって運搬された土砂が河口付近に堆積されて出来た小さな三角州等も見られる。
強く吹き付けられた風によって造形された花崗岩の岩山に、山間はジネープロやトキワガシの森林に覆われ、豊かで肥沃な土地はのどかな田園風景の広がりを見せる。
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Fabrizio De André (archivio Fondazione Fabrizio De André Onlus)
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1955年サルデーニャでのクリスマス休暇を家族、父親Giuseppe, 母親Luisa、 兄Mauro と。(archivio Fondazione Fabrizio De André Onlus)

Fabrizio De André はジェノヴァの上層中産階級の家庭に生まれ、時は第2次世界大戦の勃発とともにDe André 家族はピエモンテ州はアスティ県の小さな田舎町Revignano(レヴィニャーノ)に1941~1945年まで過ごし、後にジェノヴァに戻る事になるが、その後の1950年頃までFabrizio De André は幼少の夏休みをRevignanoで過ごしている。
このRevignanoの田舎町で友達や農民達と過ごした長閑で幸せな日々の中でDe André は自分も彼らのように農夫をすることを夢に描くようになる。
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1948年AstiのRevignanoで友達と農民達と。2列目左から1番目兄Mauro、4番目Fabrizio。右から2番目母親Luisa。(archivio Fondazione Fabrizio De André Onlus)

Fabrizio De André の青年時代はフランスの詩人でシンガソングライターのGeorges Brassens(ジョルジョ・ブラッサンズ)やフランスの詩人François Villon (フランソワ・ヴィヨン)、ロシアの思想家・無政府主義の創始者Michail Bakunin(ミハイル・バクーニン)、ドイツの哲学者Max Stirner(マックス・シュティルナー)等に親しみながら友達と夜な夜な音楽や詩、文学について語り合いながら青年期を過ごす。

また1950年代後半に米国を中心に現れたビート・ジェネレーションの作家たちJack Kerouac(ジャック・ケルアック),
Allen Ginsberg(アレン・ギーンズバーグ),William Burroughs(ウイリアム・バロウズ)たちからもかなり影響を受ける。

De André の初期作品、特にデビュー当時はフランスのBrassensの影響を受けてかかなりフランスっぽい楽曲に仕上がっている。
「La ballata del Miche」(1961)

もともとDe André は人見知りで恥ずかしがり屋であったことは有名だが、ほとんど公衆の前で歌うことがなかったため彼のシンガーとしての存在も当時はあまり知られる事も少なかったが、1964年に発表した「La canzone di Marinella」を翌年の1965年にイタリアの国民的歌手ミーナが歌唱したことによって、一躍De André は脚光を浴びるようになる。
この「La canzone di Marinella」の楽曲の成り立ちはDe André がある日新聞の片隅の記事を見つけたことから始まる。
ピエモンテのアスティの小さな田舎町に住む少女は16歳の時に両親を亡くし、さらには親戚の叔父叔母たちからも追い払われ、天涯孤独に一人途方に暮れた先にはいつしか街頭に立って身を売るようになっていた。そして少女はある時手にしていたハンドバッグをある者に奪われ、橋の上から突き落とされ二度と帰らぬ人となってしまったというこの事件を知ったDe André は、あまりにも少女の切ない人生にせめておとぎ話を捧げたかったとしてこの曲が生まれた。
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Portobello di GalluraのVillaggioから

実際にDe André の作る楽曲は社会からの疎外、反逆、娼婦など、いわゆる社会の片隅にいる人々に宛てた曲も多く、特に60年代後半は1968年5月パリで起こった5月革命が端を発しイタリアにも飛び火したことは言うまでもなく、フランスの実存主義しかり、彼がアナーキスト、自由主義者だと言われる所以が彼の音楽活動の中においての時代背景からしても
De André の精神的支柱なるものが自ずと見えてくる。

またDe André はリグーリア地方の言語、サルデーニャのガルレーゼ語、ナポリ方言等、ある地域に特化した独自の言語にも多大な興味を示して、楽曲によっては独自の方言を適用したりと、作詞をする上でテクスト上の言葉の趣旨、真意に深くこだわっていた事でもよく知られている。

よくFabrizio De André の音楽はつまらない、暗い、悲しい、難解などとの声も耳にすることもあるが、彼の音楽活動の中で彼のアーティストとしての人望や大衆性をはじめ、彼の楽曲の音楽性や詩節のレベルの高さ、思考の深遠さはさまざまな世界のアーティストや知識人たちからもかなり高く評価されており、彼の死後もイタリアの学校の図書室、公園、広場にと彼のイタリアのミュージック界の歴史に残した偉大な功績が今も捧げられている。
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たとえば1971年に発表されたアルバム「Non al denaro, non all'amore né al cielo 」De André がアメリカで1915年にベストセラーになったEdgar Lee Masters (エドガー・リー・マスターズ)(1868-1950)の
L'Antologia di Spoon River 」(スプーン・リバー詞華集)から着想を得て制作されたアルバムであるが、イタリアにスプーン・リバー詞華集を初めて紹介したのが1943年イタリアの女流作家で翻訳家のFernanda Pivano(フェルナンダ・ピヴァーノ)(1917-2009)によってであった。

Fernanda Pivanoと言えばヘミングウェイやビート・ジェネレーションの作家等、アメリカ文学をイタリアへと橋渡しをしたことでもよく知られる人であるが、彼女はトリノの令名高いD'Azeglio(ダゼーリオ)文科高等学校の出身で他の卒業生には作家の
Primo Levi、イタリアの大手出版社エイナウディの創設者Giulio Einaudi、詩人、作家、翻訳家のCesare Pavese等がいて、たくさんの明晰な頭脳を輩出した高校として名高い。
因みにFernanda Pivanoにオリジナルの英文のスプーン・リバー詞華集を紹介したのがCesare Paveseである。
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公私に渡る大親友だったFernanda PivanoとFabrizio De André

スプーン・リバー詞華集はアメリカ中西部イリノイ州の架空の田舎町スプーンリバーにある共同墓地から244の墓碑銘が人間の欲望、恨み、愚行、罪悪等をリアリズムな表現で語りかけており、De André はこの詞華集から9つの詩を選んで9つの楽曲がアルバムには収められている。
また9曲の楽曲の中の1つ「Il suonatore di Jones」だけは原作の「バイオリン弾きのジョーンズ」に出てくるJonesの名前を曲の中でも引用している。
但し、De André の曲中はバイオリンではなくフルートとしている。
そして「Il suonatore di Jones」ではFabrizio De André のアイデンティティと重ね合わせている楽曲と言われている。
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1945年AstiのRevignanoの酪農家の一室でのFabrizio De André (archivio Fondazione Fabrizio De André Onlus)

1978年7月にガルーラのTempio Pausaniaの田舎に「L'Agnata」(風から保護された片田舎 ガルレーゼ語)
アグリツリーズモをオープンさせるが、翌年の1979年8月27日サルデーニャのBanditismoの犠牲になり、4ヶ月間
Patadaの山奥に妻のDori Ghezziと共に監禁されるが、同年12月の22日には身代金5億5千万リラ(27万2千ユーロ、3128万円)と引き替えに晴れて自由の身となる。

その後De André が友人でジャーナリストのCesare G Romanaに語った会話には、
「サルデーニャは行くたびにいつも僕を魅了するんだ。サルデーニャの自然、人、そして彼らの祖先からの伝統、信仰、礼拝、そして女性や子供に対する敬意や配慮。彼等はうまいお世辞も決して言わないし、いつも少しぶっきらぼうだけれどとても堅実な民族と言えると思うよ。でもあくまでも略奪行為は別としてね。」

1999年1月11日深夜の2時15分に肺腫瘍で亡くなるまで、サルデーニャの大地に対する愛情は終止変わる事はなかったと言う。

Fabrizio De André のあだ名"Faber"はいつもDe André がドイツの文具メーカーFaber-Castellのパステルを愛用していたことから彼の長年の大親友でイタリアの喜劇役者のPaolo Villaggioによって"Faber"と呼ばれていたことからに由来する。



« La vita in Sardegna è forse la migliore che un uomo possa augurarsi: ventiquattro mila chilometri di
foreste, di campagne, di coste immerse in un mare miracoloso dovrebbero coincidere con quello che
io consiglierei al buon Dio di regalarci come Paradiso. »

≪サルデーニャでの生活は、おそらく人間が望むどおりに生活するのには最高なんだろう。
驚くべき美しい海に分け入る海岸線に、田園、森林が広がる24000km²の大地は、僕が良い神様に私達の楽園として
プレゼントするように勧めたいことときっと一致するに違いないだろう。≫

(Fabrizio De André, 1996)


「Canzone dell'amore perduto」(1966)


<参考文献>"Amico fragile - Fabrizio De André" Cesare G. Romana
      Sperling &Kuper Editori



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by portocervo1962 | 2011-03-29 05:06 | Gallura


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