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2010年 03月 08日

サルデーニャとD.H.ロレンス

もともとエメラルド海岸と呼ばれる前のこのあたりはMonti di Molaと呼ばれていた。原住民たちは水車小屋の挽き臼で穀物などを砕くのに利用していたのである。
自然のままの赤っぽい花崗岩の岩山に紺碧に輝く海の近くに生い茂る地中海潅木地帯の広がり、そして唯一存在していた住居は、サルデーニャ北東部ガルーラ地方文化のシンボルでもある"STAZZO"と呼ばれ、所々の丘の上に点在する石灰で白く化粧された家だけだった。石灰で白く塗られた壁は寄生動物を殺すのに有効的であるのと太陽からの強い日差しをさえぎるために工夫されたものである。
実際、昔のサルデーニャの島は本土のイタリア人からは非衛生的で不健康な土地だと敬遠されていた。なぜなら島全体がマラリアに冒されていたからだ。
マラリアという病気はもともとアフリカで発生したもので、マラリアの根源は熱帯地方にある。
サルデーニャにカルタゴ人が侵入した紀元前550年頃、牧畜を主としていた原住民たちは高地に避難し、低地で農耕が始められたときにマラリアの流行が始まったと言われている。
マラリアは蚊によって媒介される病気であり、マラリアを媒介するハマダラ蚊が沼地の周辺で多発したのである。
そして第二次世界大戦後にアメリカのロックフェラー財団の援助によりサルデーニャ・プロジェクトが始める。このサルデーニャ・プロジェクトというのはDDT(有機塩素系殺虫剤)を大規模に散布する計画で1946年から1950年まで続き、島の住民たちはようやくマラリアから解放されることになる。
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1950年 ロバの上にDDTの容器を乗せて運んでいる

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DDTを散布しているところ

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上の写真は左は1947年10月30日、右は1947年12月27日と記載されており、その当時DDTの散布が済むと玄関先にこのように記していたようだ。
この写真は今現在でも町の旧市街地の建物の外壁にすぐに見つけられるものだ。

そんなマラリアに冒されていた島に1921年1月に訪れ、この島の魅力にすっかり心を奪われたしまった英国人作家がいる。
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D.H.Lawrence(1885-1930)「チャタレイ夫人の恋人」などで知られた作家であるが「海とサルデーニャ」というタイトルでサルデーニャでの旅行記をユーモアでほのぼのとした描写で綴られている。
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バスや鉄道を利用しながらのカリアリからオルビア方面までの冒険旅行である。
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サルデーニャは毎年6月中旬から9月中旬までと期間限定で運行されるTrenino Verde(トレニーノ・ヴェルデ)という名前のごとく緑色した3両編成の電車での観光産業が年々人気を呼んでいる。D.H.ロレンスのツアーもあるくらいだ。
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運行行程は公営交通機関の5つの路線とツーリストとための4つの路線とになる。中でもお勧めはMandasからArbataxの159kmの路線とMacomerからBosaの46kmの路線だ。
トレニーノ・ヴェルデに乗車しながらでは見ることのできない内陸から海岸線への道のりの中でサルデーニャの内陸の秘められた美しさが発見できるのである。
ツーリストの中にはD.H.ロレンスの「海とサルデーニャ」の本を片手に旅している人もいる。

彼がカリアリ市で宿泊したホテル「La scala di ferro」には今でも英国人作家D.H.ロレンスに献呈された標札が掲げられている。
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サルデーニャに訪れる人の目的はさまざまだが海岸線沿いの美しさだけではなく内陸の古代遺跡巡りをはじめ、まだ未開のままの秘境の地を求めて訪れてくる人々が本当に年々増えて来ていると思う。
私たちも休みを利用してサルデーニャを周遊しているがいつも新しいことの発見の連続である。
サルデーニャは本当に神秘につつまれた島であると思う。
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D.H.ロレンスの本と一緒にトレニーノ・ヴェルデに乗って旅したいと思った方はワン・クリックを。

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by portocervo1962 | 2010-03-08 08:03 | Sardegna


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