PORTO CERVO の人々

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カテゴリ:Barbagia di Ollolai( 5 )


2010年 11月 16日

Mamoiada マモイアダ

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Mamoiada(マモイアダ)と言えば毎年1月17日のSant'Antonio Abateの日の夜に大きな焚き火が灯され、歪でグロテスクな黒い仮面を女性用の黒い大判のショールで頭と後頭部を覆い、それを顎下で結び目を作り、さらには黒羊毛のコートを羽織り、背中には30~35㎏の家畜用の鈴を背負っている"Mamuthones"(マムトーネス)と白い仮面に赤い胴着、白いパンツに真鍮と青銅の小さい鈴があしらわれたベルトを斜交いに掛け、オリエナの町の女性によって縫い取られたショールを腰に巻きつけ、そして広い鍔の黒い帽子に手にはいぐさで編まれた縄を手にした"Issohadores"(イソッアドレス)によって披露される1年の農業の始まり、そしてカーニバルの始まりを祝う儀式でよく知られた町である。
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特にMamuthonesの"Sa Visera"と呼ばれる主には洋ナシの木や榛の木で彫られた黒い仮面、"Sa mastruca nera"と呼ばれる袖なしの黒く染色された羊毛の毛皮、"Sa garriga"と呼ばれるトナーラの町の職人の手によって作成される大量の家畜の鈴の束はサルデーニャのその他の地域のカーニバルの装いの中でも一際衝撃的であることからいつも人々の関心の的になっている。

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そもそも500年以上も前から農民の生活の中においては太陰暦の暦は季節の運行を示すものとして非常に重要視されていて、毎年1月17日はその年の1年の農業を豊かに有益になるように農地を海から遠ざけさせ、豊穣を祝福するお祭りが行われていた。
またSant'Antonio Abate(エジプトの聖人アントニウス)は昔から家畜の擁護者として例えられていて、伝説によると1月17日の夜には家畜が話すことの能力を取得すると言われており、お祭りの間農民たちは家畜と家畜小屋からなるべく遠ざかることにより、家畜の会話を耳にすることによって引き起こされる悪い前兆を引き起こらないようにしていたと言う。
確かにSant'Antonio Abateの図像は必ず興味深いことに家畜と炎の近くに表されているのである。

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MamuthonesIssohadoresの儀式は12人のMamuthones(生贄・敗者)と8人のIssohadores(羊飼い・勝者)で構成されており、Mamuthonesの12人は1年の12ヶ月を表している。
1列6人のMamuthonesが2列の並列を成し、背中に担いだ家畜の鈴を上下に振り動かしながら行進して行く。その痛ましく、音がこもった鈴の音色は海の霊を遠ざけ、犠牲になったキリストを思い起こさせる事を意味していると言われている。
そして12人のMamuthonesの周りには8人のIssohadoresが取り囲み、いぐさで編まれた投げ縄で生贄Mamuthonesを捕らえる動作を見せるのである。
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今年の9月から3ヶ月間にかけて毎週末開催されているAutunno in Barbagia(Cortes Apertas)2010も中盤に差し掛かり、毎年3ヶ月で約30万人の人出を集客しているイベントであるが、いつも訪れてみて思うことが、町自体の規模やコムーネの経済力、さらには地元の人たちの率先力というものがかなりイベントを左右しているのだろうと思う。確かにコムーネ自体にお金があると昔ながらの伝統様式の住居を良い保存状態で保護し、さらに老朽してきている家屋には古い伝統建築様式のオリジナルとの調和を崩さないように、それに見合った建築資材の調達からサルデーニャの古くから伝わる伝統建築様式の意義をちゃんと理解した熟練した土木修復技師の存在が必要不可欠になってくる。大概はこれらのことは非常にコストが掛かることなのでほとんどの町が住居の内装・外装とも調和が崩されてしまってコストを押さえた近代的な造りの家屋に替えられてしまっているのが常であるのだが、Mamoiadaの町をぐるりと周って見て、Mamoiadaの町が農業・牧畜業に加えて修復建築土木業・手職人が盛んであることがすばらしいポルティコや中庭、または内装などの良例を見て確認しながら私の建築家である夫がすぐに理解できたと言っていた。
実は現在夫はあるクライアントからサルデーニャの伝統様式を駆使したワインのカンティーナのプロジェクトを依頼されていて、Cortes Apertasのこのイベントを利用しながら特にBarbagia地方の伝統建築様式を参考にさせてもらっているのである。
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またMamoiadaは非常に湧き水が豊かな町で町中には6箇所ほど給水場所があり、なかでもローマ支配下時代の給水場は興味深く、そこはローマ人の駐留地の中心地であったそうだ。

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私たちは今回初めてMamoiadaCortes Apertasに訪れたのだが、非常に感心したのがEco Festaと題して、こういう種のイベントでは毎回大量のゴミの山が生産されることを考慮して、費用コストは3倍になるにもかかわらず組合は同意してコップ、皿、簡易袋と可能な限り生分解できる製品を活用していた。さらにはサルデーニャの伝統の古いレシピを活用し、地元で生産されたBIO食材で調理された定番のメニューだけではなくセネガル、アルゼンチン、パレスチナの国の料理も提供されていて、いつも何処に行っても子豚のロースト、ペコリーノ・サルド、フィオーレ・サルド、パーネ・カラサウ、サラミ、プロシュット等マンネリで食傷気味の訪問者の食欲を駆り立てた事は言うまでもないだろう。
SAS TAPASと記された番号の付いた標識を基に各自がそれぞれの行程を楽しみながらそれぞれの中庭で56皿のレシピが用意されていてとても新鮮だった。
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実はSAS TAPASの活動はMamoiadaでは2007年から実地されていて、彼等はMamoiada
MamuthonesとIssohadoresのカーニバルだけではなく地元でBIO生産された製品に対しての活動や、今ではサルデーニャの土着品種で知られるカンノナウのルビー色のワインの醸造でももっとよく知ってもらおうと非常に積極的である。
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カンノナウと言えばサルデーニャで一番普及されている土着品種でサルデーニャ全土で8000ヘクタールにも及んでいる。地域別に示すとヌオレーゼ地方45%、オリアストラ23%、カリアリ13,7%、サッサリ11%、オルビアテンピオ4,3%、オリスタネーゼ、メディオ・カンピダーノ、スルチス3%と分布されていてMamoiadaだけで270ヘクタールのブドウ畑を占有している。
尚サルデーニャのカンノナウは1972年に7月21日にDOC(原産地統制名称)のリストに登録されている。
またカンノナウの発祥はスペインのアリカンテワインと強い類似性をもっていることからイベリア半島からもたらされたという憶測があるが、ある研究者の憶測によると紀元前1200年前のカンノナウのブドウの種をサルデーニャのサルダラという町の周辺で2004年の8月にイタリア人とオランダ人の考古学者たちによって発見されたことからメソポタミア文明の時代まで遡るという信憑性のある解釈が現在もっとも認められている。またカンノナウという品種の名称も1549年10月21日にカリアリの公証人Bernardino Coniによって命名されていることがGianni Lovicuによって発見されており"Cannonau"という言語はある言語から派生されたわけではなくサルデーニャのオリジナルの言語であることも確認されている。
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珍しいところではサルデーニャにはカース・マルツゥという蛆虫チーズが珍味として知られているがあまり公では販売できないのだけれどカース・マルツゥの中庭はたくさんの人で、パーネ・カラサウのパンと一緒に蛆虫入りチーズを味わう人で溢れていた。
そしてもう一つ珍しいCorte(庭先)はカリアリ県の人口3万人ほどのコムーネの一つSelargius(セラルジュス)のケッパーが販売されていたこと。うわさでは聞いていたけれど食するのは初めてで味見をしてすぐに購入。非常に繊細な味覚でサルデーニャで唯一生産されているセラルディーノのケッパー是非試していただきたい。
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1930年代から使い込まれてきた道具の数々、その時代の豊かさを象徴するアンティークな家具は現在でもまったく色褪せていない。
よくサルデーニャの内陸の昔の古い家を訪ねると台所や仕事場の天井には写真のようによくグリーン色に塗装されているのだけれど、これは昔、農民がブドウの寄生菌病予防のために散布して余った緑色の硫酸銅を部屋の天井にも塗って活用して、昆虫や寄生虫を避け、また木材を保護する為にも有益であったためである。またグリーン色の天井はなんだか見栄えがすることからその当時の人々の間では装飾的な役割も果たしていたらしい。
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私たちの今回のMamoiadaの滞在は実は結構短かったのだけれど、私の夫はかなりMamoiadaのすばらしいCorte(中庭)からたくさんのインスピレーションが浮かんだらしい。
サルデーニャの生活の中心はCorte(中庭)から始まる。人々はCorte(中庭)で糸を紡いだり、紡いだ羊毛を自生の植物で染色したり、籠を編んだり、仮面、あるいはカッサパンカ(サルデーニャの伝統の木彫りを施した収納箪笥)を彫ったりとあらゆる作業をCorte(中庭)に運んで働いていた。サルデーニャの伝統文化の全てがCorte(中庭)にあり、そしてもちろん人々の憩いの場所もCorte(中庭)にあるのである。

そしてまた機会があれば是非Mamoiadaには訪れてみたいと思う。

いつも訪問ありがとう。

<参考文献>
LA BIBLIOTECA DELLA NUOVA SARDEGNA
Antichi mestieri e saperi di Sardegna Volume 4,13
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by portocervo1962 | 2010-11-16 09:33 | Barbagia di Ollolai
2010年 10月 19日

サルデーニャの養蚕とOrgosolo

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養蚕の起源を遡ると今からおよそ4500年前の古代中国ではすでに養蚕技術を持っていて、美しい絹織物を生産していたという。
そしてその美しい中国の絹織物を求めて中国の西安とヨーロッパを結ぶ7000km以上もの交易路を商人たちは砂漠を越え、あらゆる敵や強奪者に立ち向かいながら危険をも顧みず旅をした。
そしてドイツの地理学者で探検家のFerdinand Von Richthofen(1833-1905)(フェルディナント・フォン・リヒトフォーフェン)は自らの研究を元に書いた1877年『China』という著書の中で"Seidenstrassen"(ザイデンシュトラーセン)絹の道という言葉を用い、これによって後にシルクロードと命名されたのは有名な話だけれど、ではサルデーニャ島においての養蚕はいったいいつ頃から始まったのだろうか。

調べてみるとサルデーニャ島で最初の養蚕が始まったのは紀元10世紀頃東ローマ帝国の時代に齎されたと記録が残されている。
そして紀元17世紀サルデーニャはスペイン支配下の時代になると、島のこの気候を活かして養蚕と桑の栽培によって高貴な絹織物の生産を増やそうとサルデーニャの人々に従事させるための規定が議会で定められるが、実質は桑の栽培や養蚕の専門の知識やそれを指導できる人の存在が不足していた事もあって当時はなかなかうまく進展しなかった。

さらに1750年代から1800年代になるとサルデーニャ王国のピエモンテ政府による本格的な養蚕業の改革の導入により、サルデーニャの人々は養蚕業に本格的に専念する事を余儀なくされた。
しかしながらその甲斐があってか新たな養蚕による絹織物の生産の利益は、主には北ヨーロッパへの輸出により国の全体の利益の4分の3まで占めるまでとなり、サルデーニャの人々が養蚕業に従事する前向きな動機付けを与えるまでになった。
そしてこのサルデーニャの養蚕技術の向上と発展においては、ある女性企業家の存在を忘れてはならない。
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Francesca Sanna Sulis

彼女の名はFrancesca Sanna Sulis(1716-1810)。
彼女は(Cagliari)カリアリ県のコムーネの一つMuravera(ムラヴェーラ)で農業と家畜の飼育を営むかなり裕福な家庭で生まれた。そして1735年に法律家のPietro Sanna Leccaと結婚した後はカリアリ市に移り住むが、彼女の養蚕と紡績に対する情熱からQuartucciu(カリアリ県のコムーネの一つ)の町に引越し、Quartucciuの家の倉庫を絹織物の生産のための工場として提供し、さらには近代的な織機等を導入する等、桑園の管理、養蚕技術の向上を図る上においても大きな業績を残した。
彼女の工場で働く若者は初めて仕事場に携わる前には必ず養蚕・紡績の専門的な知識・技術を身に付ける為の教育課程を受けることが義務付けされていて、その当時においてはそれはとても画期的なことだった。
Francesca Sanna Sulisの下で生産された絹織物は最高品質を誇り、ピエモンテ州やロンバルディア州(コモ湖)にほとんど買い取られていったという。
貴婦人Francesca Sanna Sulisは18世紀のサルデーニャの養蚕・紡績の分野において専門家としての育成や、養蚕業・繊維工業の向上と発展において偉大な貢献を与えただけではなく、女性企業家のパイオニアとしてサルデーニャの経済を支え発展させた人なのである。

18世紀の後期、政府は桑の木の分布を調査した結果サルデーニャ全土ですでに5140本の桑の木が分布していたが、どの地域も養蚕がまだ初歩的な生産のレベルだった中で一地域だけが養蚕の作業の段取りが完璧で、繭の収穫から製糸技術、織成技術に渡りすべてに勝っていて、その一連の作業が他の地域からはまるで修道院の戒律にも勝る儀式のようだと囁かれていた。
その地域とはOrgosoloで今も昔も絹の生産において重要な地域なのである。
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サルデーニャのオルゴーゾロのCorda家では今現在も600年以上前から培われてきた養蚕・織成技術を娘のMariaの代まで受け継いでいて、オルゴーゾロの女性の伝統衣装を構成する上で欠かすことの出来ない女性の顔を覆う頭巾をオルゴーゾロでは≪Su Lionzu≫と呼び、その飾り帯(長さ1.5m、 幅330m)の制作を養蚕から織紡まで手作業で手掛けており、その伝統意匠の仕事の功績に対してMaria Cordaは2009年第23回目のカリアリ市のLioness Clubが主催する"Donna Sarda"サルデーニャ女性賞を受賞した。
オルゴーゾロの女性の伝統衣装はサルデーニャの他の地域の伝統衣装と比べて色彩的にも一際目を引く華やかさがあり、特に≪Su Lionzu≫と呼ばれる飾り帯を覆った姿は何とも印象に残るのである。
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オルゴーゾロの繭は小麦色を帯びた黄色の繭で、もともと本来繭は白色ではなく着色繭がほとんどで、それが長い年月をかけて着色繭を改良し、白繭が誕生した。そして着色繭は主にヨーロッパを中心に好まれ輸入されてきたそうだ。
サルデーニャの気候が養蚕に適している事の利点には通常春蚕(はるご)と言われる孵化の時期が4月中旬であるのに対してサルデーニャは3月20から25日の時期で日光をたくさん浴びた繭は素晴らしい光沢を放ち、美しい糸を作るからである。
またオルゴーゾロの品種と言われる繭は500mもの長い繊維を成し、紡いだ糸をカセに巻き取る時も数人の女性の共同作業で行われる。
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実際に全ての工程において女性の忍耐と根気を要する仕事について昔から儀式のようなものだと言われるのも納得できるのである。
また紡がれた糸をサルデーニャの特産でもあるサフランで染色していることも非常に興味深かった。
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オルゴーゾロのコルテス・アペルタスではMaria Cordaのアトリエに訪れてオルゴーゾロ産の繭に何百年と使い込まれた織機、オルゴーゾロの女性の衣装の大切な飾り帯≪Su Lionzu≫、オルゴーゾロならではの伝統の祭り菓子などオルゴーゾロの伝統文化に触れていろいろと楽しむことが出来た。
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Maria Cordaのアトリエの近くで遊んでいた女の子たち。

そしてオルゴーゾロはカンノナウの土着品種で知られるワインの産地としても有名でこのところ頭角を現してきているCantine di Orgosoloのワインを購入した。
Cantine di OrgosoloのワインボトルのラベルにはMaria Cordaが紡ぎサフランで染められた絹糸がラベルの飾り紐としてあしらわれている。
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私たちが購入したワインは500本限定のSORAI RISERVA 2007。

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オルゴーゾロにはまた訪れる機会があれば是非訪れてみたい。というのもオルゴーゾロにはまだたくさんのことが隠されていると思うから。
そしてオルゴーゾロの神秘に包まれた魅力を探ることは容易なことではないかもしれないけれど、また知りたいという欲望に駆られる町がオルゴーゾロなのだと私は思う。


いつも訪問ありがとう。


<参考文献>Antichi mestieri e saperi di Sardegna volume 9
LA BIBLIOTECA DELLA NUOVA SARDEGNA
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by portocervo1962 | 2010-10-19 04:59 | Barbagia di Ollolai
2010年 10月 14日

壁が語りかける町Orgosolo

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1969年Pratobelloの反乱

それは今から41年前の1969年5月27日に始まった。
ちょうどOrgosolo(オルゴーゾロ)と Fonni(フォンニ)の町を結ぶ境目に緑豊かに広がる高原Pratobelloがあり、そこの13000haもの牧草地にイタリア政府はイタリア軍部隊の実弾射撃演習場を設置する事に決めた。

そしてその後の6月9日にOrgosoloの人々によるPratobelloの反乱が起きた。
闘争に出向いたのは男性だけばかりではなく女性や幼い子供、お年寄りまでがおよそOrgosoloに住む3500人ほどの住人がイタリア軍部隊に抵抗するために繰り出した。
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イタリア軍兵士を追い払うOrgosoloの女性たち

人民主権を求めてPratobelloの反乱は眠ることなくまるで狂気に駆られたように1週間以上にもにわたる期間激しい闘争が繰り広げられ、そして2ヵ月後にはイタリア軍部隊はバルバージャ地方の民族の核と言われているOrgosoloの人々の獰猛で狂気な様に屈して退散したと言われている。
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このPratobelloの反乱当時にはOrgosoloの集落の所々の壁にはこのような張り紙が貼られていた。
住人たちは兵士たちが運んでくる弾丸ではなく堆肥を皮肉を込めて要求しているのである。

この張り紙に触発されてかどうかは定かではないがPratobelloの反乱が起きた同じ1969年にOrgosoloの集落に初めて描かれた壁画はミラノ出身のアナーキストのグループ"Dioniso"によって描かれたといわれ、壁画には彼らのサインが記されている。
いずれにしてもこの壁画がOrgosoloのMulares(壁画)の発祥だと言われている。
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壁画にはサルデーニャ島が記されていないイタリアの地図が描かれ、アメリカ合衆国の帝国主義の野望の犠牲者ともいうべきなんとも皮肉な事か。

そしてその後1975年からOrgosoloの集落の壁に壁画を描き始めたのがシエナ出身で1964年からOrgosoloに移り住んでいる画家Francesco del Casino(1944~)である。
おそらくOrgosoloの町中にある壁画の大半がFrancesco del Casinoによるものである
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Orgosoloの町中には2010年今現在で350ほどの壁画が描かれていることが確認されているそうだが簡単に見つけて鑑賞できる場所に描かれている壁画で150ぐらいだそうだ。
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とにかくOrgosoloの町中の壁という壁がほとんど壁画によって支配されていて、それは社会への告発であり、戦争に対するスローガンであったり、政治問題、環境問題、伝統文化、ある著名人の引用文であったりとまるで壁の中が新聞紙面のように時事問題で溢れかえっている。

そして町中を歩いているとMesinaという看板を掲げたお店が結構目に付き、一瞬ドッキとしたけれどサルデーニャは同じ地区に同じ苗字の人が結構集中しているのでいつものことだけれど、それでもやはり少し反応してしまった。

そして次回はOrgosoloのコルテス・アペルタスのお祭りの様子を少しだけご紹介。


いつも訪問ありがとう。
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by portocervo1962 | 2010-10-14 00:01 | Barbagia di Ollolai
2010年 10月 05日

SUPRAMONTEのパイオニアの町オリエナ

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オロセイ湾のおよそ北西部を占有しているSupramonteの山岳地帯は明瞭な稜線が連なる起伏の激しい白色、灰色とも輝く石灰岩を伴うドロマイト山脈でOliena(オリエナ),Orgosolo(オルゴーゾロ),Urzulei(ウルツレイ),Baunei(バウネイ),Dorgali(ドルガリ)の5つの町を跨っている。
Supramonte山脈の最高峰はオリエナ側に位置している標高1463mのCorrasi(コッラージ)山である。
いつもオリエナ方面に向かう時、この荒涼とした人跡未踏の山中で急で険しく聳え立つ迫力に満ちたSupramonteの山が視界に迫ってくるのである。それはある種、少し大袈裟かもしれないがペーソスあふれる感動的とも言える光景なのである。

ご存知の方もいるかもしれないが無政府主義論者としても知られたイタリアを代表するジェノバ出身のシンガーソングライターの故Fabrizio De Andrèが1979年の8月に妻のDori Ghezziと共に4ヶ月間サッサリ県のPattadaの山奥にサルデーニャの有名な強奪グループによって不法監禁されたのだが、その後の1981年に発表されたFabrizio De Andrèのアルバムの中の1曲"l'hotel Supramonte"では彼らの誘拐された時の心境をメタファーを通して哀感込めて歌われているのである。
Fabrizio De Andrèがあえて題材としてPattadaではなくSupramonteを選んだのかは、このドラマチックに険しく切り立つ、まるで人を寄せ付けさせないようかに見える山塊が実は人々を魅了して止まないことが実際にSupramonteに訪れた人だけが理解出来るように思うのである。
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先日の9月の17、18、19日の週末の3日間にかけて催されていたオリエナの商業的お祭りコルテス・アペルタスに今回初めて訪れてみた。
コルテス・アペルタスは開かれた中庭という意味通り、普段決して開放されることのない個人所有の昔の富の象徴等が垣間見えるすばらしいお屋敷・中庭を貸しきって、その地元で生産、制作される産物を販売を兼ねて促進するイベントであるが、オリエナは昔ながらの住居がいい具合に保存されていてその時代の建築技法を知る上ではたいへん興味深い町なのである。
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たとえば上の写真のように木造のテラスというのはもう典型的なバルバージャ地方の伝統様式のテラスで私たちの住むガルーラ地方ではまずお目にかかることはないのだが、バルバージャ地方においてもほとんどが改装されてしまっていてなかなかオリジナルにお目にかかるのはむずかしい中、オリエナは本当に昔のお屋敷がうまく修復されながら残されているので感心した。
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オリエナといえば1972年からNepente di Olienaというオリエナ地方で生産されるCannonau 品種DOC(原産地呼称統制ワイン)で知られ、特にイタリアの詩人・作家のGabriele D'Annunzio がその昔オリエナに訪れた時オリエナのCannonauを味わい感嘆し、愛飲し続けNepente di Olienaの詩を残したのは有名な話である。
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オリエナ地方では葦の木と自生のオリーブの木とで編まれる籠が伝統的であるそうだ。
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1900年初頭の台所の様子や昔の竈(かまど)ではパスタの制作を実演して見せてくれる。
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そしてオリエナ地方の女性の伝統衣装の象徴であるショールの図案から実際の縫い取りの様子まで伺えて興味深かった。一枚の花柄が縫い取られたショールが完成するまで3ヶ月間、お値段が3千ユーロから3千5百ユーロだそうだ。
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バルバージャ地方で結婚式や各祭事の時に振舞われる全て手作業で行われている精巧な細工菓子のアーティストHòrosの Anna Gardu。彼女のように精巧な細工菓子が出来る人はもう島に数えるぐらいしか居なく彼女は貴重な存在なんだそうだ。そんなまるでジュエリーのような細工菓子を制作する彼女については別の機会にゆっくり紹介したいと思う。
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オリエナの町中を歩いているとこのようなプレートを所々の壁に目にすることが出来る。地元の人に尋ねてみたら、2008年からオリエナで郷土料理を推奨するレストランのオーナーたちが"Le vie del gusto"(味覚の街道)と記して、作家のGrazia Deleddaの作品からバルバージャ地方における古いレシピの記述部分の一節を12の陶器のプレートの中でそれぞれ表現されているのである。こういうことからもオリエナの人々の連帯感を感じさせられた。
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オリエナで有名な衝撃的な壁画。壁画アーティストLuigi Columbuによるもの。尚Luigi ColumbuはGiovanni Antonio Sulas先生の教え子である。
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そしてオリエナを去る前にPeppeddu Palimoddeに捧げられた広場に立ち寄った。壁画は全てLuigi Columbuによるもの。
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広場の中央奥には人物を描いた壁画があり、そこには"SupramonteのパイオニアPeppeddu Palimodde"と記してあった。

オリエナは今でもバルバージャ地方の魂ともてなしの心が宿る温かい町だった。


いつも訪問ありがとう。
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by portocervo1962 | 2010-10-05 04:07 | Barbagia di Ollolai
2010年 10月 01日

カントリー・リゾートホテル SU GOLOGONE

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1960年代初頭 l'hotel Cala di Volpe

1962年エメラルド海岸協同組合の設立後、高級リゾート建設事業の皮切りはl'hotel Cala di Volpeだった。

エメラルド海岸の創始者であるアガ・ハーン4世はその当時の社交貴族の中においては飛び抜けてモダンであったことはすでに周知の事実ではあるが、また建築学に対する造詣の深さも相当なものだったことは有名な話である。
そんな彼がエメラルド海岸にリゾートの楽園を創り上げるうえにおいて最も固執したことは、彼のお眼鏡に適った著名な建築家たちをサルデーニャの地に呼び寄せ、サルデーニャのこの美しい景観と調和するようにサルデーニャ原産の資材を利用しながらサルデーニャの古くから伝わる伝統建築様式にサルデーニャ伝統の室内装飾をベースにした従来のリゾート地にはまったく存在しえなかった新しいリゾートスタイル、エメラルド海岸スタイルを生み出すことだった。

l'hotel Cala di Volpeの建設事業に当たったのはフランスの建築家Jacques Couelle、息子のSavin Couelle、私の義父とそしてもう一人ホテルの室内装飾を担当したのがヌーオロ出身の画家であり彫刻家であり、また建築家でもあるGiovanni Antonio Sulasであった。

Giovanni Antonio Sulasという人はサルデーニャを代表する画家、版画家、イラストレーターとして知られるGiuseppe Biasi(1885-1945)の教え子でもあり、サルデーニャ伝統の造型、装飾、工芸美術の世界において多大な貢献を与えた人である。
当時、Jacques Couelleや息子のSavin Couelle、そして義父にしてもSulas先生と共に働きながらお互いが良い意味で触発されながら、新しい着想などが次々と閃き、そしてお互いのその後の仕事にも大きな手掛かりを残す事が出来たという。

Sulas先生はl'hotel Cala di Volpeの室内装飾の仕事の大半を終えると、アガ・ハーン4世からの次の大きな仕事の申し出もあっさりと断り、ヌーオロにある自分の小さなアトリエに帰り、と同時にl'hotel Cala di Volpeの仕事とその当時同時に進めていた親友のホテルの仕事に専念する必要があった。
そのSulas先生の親友のそのホテルとはマドンナやガイ・リッチーをはじめとする映画のロケクルーが宿泊したホテルとしても知られているカントリー・リゾートホテルSU GOLOGONEである
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ホテルSU GOLOGONEはオロセイ湾のCala GononeからおよそOliena(オリエナ)方面に25km、車で35分ぐらいの距離に位置する場所にカルスト地形による水源SU GOLOGONEがあり、水源の深さが135mと深く美しい湧水地から200m離れたところにある。
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l'hotel Cala di Volpeは1963年、ホテルSU GOLOGONEは1967年に建造されている。
私がもう何年か前に初めてホテルSU GOLOGONEに訪れた時、特にホテル内装のディティールがあまりにもl'hotel Cala di Volpeに重なる部分が多すぎてこれは模倣ではないかとそのときに思ったほどである。
後に、義父と夫からSulas先生のことを聞いてすごく納得した事を今でも覚えている。
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ホテルSU GOLOGONEの創始者はOliena(オリエナ)出身のPeppeddu(Giuseppe) Palimodde。
Palimoddeは1925年に飼養者でありブドウ栽培者である父親Giacomoと母親Antoniannaとの間に生まれる。Palimodde家にはオリエナの現在の旧市街地の中心に当たるところにサルデーニャの古くから伝わる建築様式を施したすばらしい家屋を所有していて、母親のAntoniannaが率先して旅人や芸術家たちを宿泊させて常にあたたかくもてなし評判の宿だったそうだ。おそらくバルバージャ地方での宿泊施設casa-hotelスタイルの先駆けになったと言われている。
Peppeddu(Giuseppe) Palimoddeは母親のAntoniannaの働く姿を見ながらあたたかいもてなしと居心地の良い空間を提供するcasa-hotelスタイルのアイデアがどんどん蓄積されていったという。

またPeppeddu Palimoddeは美術蒐集家としても知られており、およそ1940年代からPeppedduの蒐集が始まり、サルデーニャ全土を渡りながら有名無名問わず彼の感性でサルデーニャの地元のアーティストの作品を買い集め続けた。その中でもとりわけGiuseppe Biasi(1885-1945)の作品に傾倒し、ホテルSU GOLOGONE開業以前の1961年レストランの営業のみの時代には、そのレストランにある一室をGiuseppe Biasiの作品だけで部屋を埋め尽くしてしまったほどである。
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Giuseppe Biasi: Ballo presso lo stagno di Cabras

ホテルSU GOLOGONE開業後も各部屋、レストラン、ロビー、各通路、リラックスルームとホテル内の至るところにPeppedduの蒐集したアーティストの作品がSulas先生の室内装飾とうまく溶け込んで飾られている。
またホテルSU GOLOGONEはサルデーニャのアーティストたちの希少な作品に出会えることでも知られる博物館のようなホテルとして知られる一方、サルデーニャのバルバージャ地方の郷土料理を提供してくれるレストランSU GOLOGONEの評判としても名高い。
というのもPeppeddu Palimoddeの妻Pasqua Salis Palimoddeは子供服のデザインや、オリエナ地方の女性の伝統民族衣装の象徴とまで言われている花柄の刺繍で縫い取られたショールのデザイナーであったが、大の読書家で特にノーベル文学賞を受賞したヌーオロ出身の女性小説家・詩人のGrazia Deledda(1871-1936)の作品を読みつくしながら、Grazia Deleddaの著書の中に出てくるバルバージャ地方の昔の古いレシピの再現に目覚め、本を何度も読み直し Deleddaのレシピの再発見のためのイニシアティブを発揮し続けるバルバージャ地方の郷土料理の信念に生きている人なのである。
主なレシピの記述著書 Il vecchio della montagna(1899)、Cenere(1904)、 Canne al vento(1913)、 Marianna Sirca(1915)
サルデーニャのバルバージャ地方料理に興味のある方はGrazia Deleddaの作品を是非一読されてみてはいかがだろうか。
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レストランの受付近くにはサルデーニャの伝統収納家具cassapancaやオリエナ地方の女性の伝統衣装のシンボルのショール等、サルデーニャの歴史を感じさせるさまざまなものが所狭しと飾られている。
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Peppeddu Palimoddeは地元のオリエナの人たちから長年親しまれていた存在であったが1996年に悲しくも逝去され、その後のホテルSU GOLOGONEは娘のGiovanna Palimoddeが引継ぎ新しいSU GOLOGONEスタイルを築き上げている。
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Pasqua Salis Palimodde
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Giovannaと生前の Peppeddu Palimodde

娘のGiovannaは絵画アーティストとしても活動しており、ホテルSU GOLOGONEのオーナー共々精力的に活躍している人である。
2001年に映画「SWEPT AWAY」の撮影でホテルSU GOLOGONEに宿泊していたマドンナもGiovanna Palimoddeにホテルを発つ時メッセージを残している。
" Goodbye My House SU GOLOGONE "
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ホテルSU GOLOGONEの敷地内にあるライブラリー。

イギリス、ドイツ、アメリカ、デンマーク、フィンランドと世界中からの宿泊客が絶えないホテルSU GOLOGONE。著名なところでは俳優のリチャード・ギアやデザイナーのステラ・マッカトニーもサインを残している。

尚、Giovanni Antonio Sulas先生は2008年7月に他界されている。

サルデーニャのことを知りたいのであればホテルSU GOLOGONEにはその全てが凝縮されているような気がするのである。居心地の良いアットホームな雰囲気で是非ともお薦めしたいホテル。

そしてオリエナの町にはホテルSU GOLOGONEの創始者のPeppeddu Palimoddeに捧げた小さな広場があるのをご存知だろうか。
オリエナには今まで何度と無く通り過ぎていたが、先日に行われていたオリエナの秋の商業的イベント"コルテス・アペルタス"に今回初めて訪ねて見た。


いつも訪問ありがとう。
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by portocervo1962 | 2010-10-01 19:12 | Barbagia di Ollolai