PORTO CERVO の人々

portocervo.exblog.jp
ブログトップ
2011年 11月 15日

廃鉱とヴァージン・コースト

c0223843_4342023.jpg
Porto Palmas(ポルト・パルマス)海岸

もう何年か前になるけれどサルデーニャ島は南西のIglesias(イグレシアス)にある廃鉱の村に訪れた事がある。
サルデーニャは古代から鉱床がとても豊かな島で、古代ローマ時代に冶金術の高度な技術が発達すると、中世の時代には島の鉱山活動は経済を大きく推進するまでに発達し、1861年イタリア統一後以降はサルデーニャの鉱業は島の経済を支えるまでに著しく成長するが、1900年代の半ばになると鉱床の枯渇によってほとんどの鉱山は閉山・廃鉱を余儀なくされた。
廃鉱後の鉱山施設は今日では島の産業遺産としてサルデーニャ自治州によって管理・保存されている。

Iglesias(イグレシアス)で閉山跡地や鉱業産業施設を訪問した後には、ずっしりとかなり重い
「LE MINIERE E I MINATORI DELLA SARDEGNA」(サルデーニャの鉱夫と鉱山)という本を思わず購入してしまった程、それ程その当時のその地域に根付いた産業の姿はある意味生々しくて感慨深いものがあった。とともに鉱山施設のすぐ近くの海岸線があまりにも美しくて、自分の中でその後も忘れられない風景の一枚としてずっと心の中に刻まれていた。
c0223843_584744.jpg
サルデーニャ島の鉱業地帯は主に南に集中していて、特に南西の地域は産業遺産としての規模も大きく、見応えもある。
そんなことから唯一、北西部にある廃鉱の村Argentiera(アルジェンティエラ)は私にとっては未踏の地だった。
スキューバー・ダイビングする友達からArgentieraの海はすごくきれいだからと以前から聞いていて、機会があれば是非訪れてみたいとずっと思っていた。
先回のPorto Conte(ポルト・コンテ)から車で30km程北上すると、かつて銀鉱山として栄えた
Argentiera(アルジェンティエラ)がある。

冶金術・鉱業の発達とともに私達の生活はより豊かになったけれど、世界中のどんな地域の鉱山であっても、鉱夫という職業は常に危険と向き合わせで、痛みをも伴う仕事であり、その時代を写す昔の産業施設は彼らの仕事の苛酷さも垣間見たりして、
時には胸に迫るものがある。
そして廃鉱の真近にはいつも目に眩いほどに純潔で無垢ともいえるヴァージン・コーストが産業遺産を取り囲むように横たわっている。




c0223843_5273925.jpg
サルデーニャの鉱山地域

サルデーニャ島の鉱業の歴史は長く、新石器時代(紀元前6000年)にはオリスターノ県のMonte Arci(アルチ山)の麓で黒曜石を採掘し、それらを道具として製造するのにすでに使用されていた。
紀元前2000年頃になるとDomus De Janas(ドムス・デ・ヤナス)等の地下墳墓に見られる埋葬習慣の発達と共に地表やごく浅い所から採掘するいわゆる地表掘りによって、主には銅を採取して銅製の道具を活発に製作するようになり、
後に合金の発見により青銅器時代の幕開けを告げるとともに、ヌラーゲ文明時代(紀元前1800年)以降は冶金術の知識の普及とレベルの高い技術がこの時代を境にして発達した事が考古学博物館で展示されている当時のコレクションからも一目瞭然である。

紀元前1000年頃フェニキア人の到来は島に鉄と銀の利用をもたらすようになる。市場が軍事目的で武器を求めた事で鉄への需要が高まって、鉄がより増産されるようになる。

紀元前500年のカルタゴ人の覇権を経て、その後第一次ポエニ戦争でカルタゴ人がローマ帝国に敗北すると、
紀元前238年古代ローマ人の支配の時代が始まり、サルデーニャの鉱山活動は主に鉛や銀の豊かな鉱床に関して大きく成長する。これには古代ローマ人の採掘技法が地表に限らず、地下の鉱脈を追って縦坑や坑道を深く掘り進んでいったことで鉱業を大規模に発展させた。

西暦395年ローマ帝国が西と東に分割し、および西ローマ帝国の滅亡(476年)後は島は東ローマ帝国(ビザンチン)の支配下に落ちる。
西暦711年頃アラブ人海賊たちによる島の海岸線沿いの襲撃が始まり、島民達は徐々に内陸へと移動し始め、次第に島民達自ら4つの独立国(カリアリ・アルボレア・トッレス・ガルーラ)を築くようになり、これによりジュディカート時代が始まる。
しかし海賊達からの襲撃は一向に治まる事が無く、ローマ教皇ベネディクト8世は海洋共和国のピサとジェノヴァに島への介入を要請する。

海洋共和国ピサの時代に入ると、ピサ人は島に初めて銀鉱山の町を建設した。"Villa di Chiesa"(Villa ecclesiae)(教会の町)と命名し、それが現在のIglesias(イグレシアス)である。(Iglesiasはスペイン語で教会という意味)(イグレシアスの町は教会が確かに多い)

ピサの時代の採掘の歴史は非常によく文書化されていた。というのも島最古の歴史的文書
"Breve di Villa di Chiesa"(1258-1323)(教会の町の法令集)という町の制定法なるものをピサ人によって作成され、法令集は4冊の法典で編成されていて、4冊目の法典には鉱業や銀の採掘の規制、鉱夫の就業規制などが細かく記されている。
因みにサルデーニャで初めて造幣所が開設されたのが1285年のIglesiasが最初である。
c0223843_7522146.jpg
アルフォンソの小銀貨 サルデーニャの中世の時代に唯一鋳造された銀硬貨

アラゴン連合国支配下の時代に入ると銀貨の流通により、銀の生産は島の輸出産業の重要な生産の一つとなるまで回復していった。実際に島のそれぞれの地域にも造幣所が次々に開設された。カリアリ(1324年)、サッサリ(1410年)、アルゲーロ(1416年)、カステルサルド(1436年)、ボーザ(1458年)。
アラゴン王アルフォンソ4世(在位1327-1336)は1324年にアルフォンソの名前を冠した2つの小さい銀硬貨を鋳造し始め、アルフォンソ5世(在位1416-1458)の1458年までアルフォンソの小銀貨は鋳造され続けた。
c0223843_0181966.jpg
1900年代初頭のArgentiera(アルジェンティエラ)の銀鉱山

貴金属や貨幣の使用が鉱業生産の需要をより高め、これにより中世時代以降の鉱業はますます急成長を遂げて行き、
1800年代に入ると、イタリアの資産家や外国人投資家たちの間でサルデーニャの地下に眠る豊かな天然資源を求めて
一攫千金を得ようとして、試掘と共に資源争奪戦が繰り広げられるようになる。
でも実際はイタリア人よりも外国の巨大資本を抱えたフランス、ベルギー、イギリス等の国の投資家たちの方が鉱山の採掘権を取得して鉱山を運営していたのが遥かに多かった。確かに当時の鉱山のPOZZO(坑道)の名前にはその当時の鉱山主の名前がまるで権威の象徴でもあるかのように必ず宛てがわれているのである。
c0223843_041168.jpg
1900年代初頭のArgentiera(アルジェンティエラ)の銀鉱山産業施設
c0223843_0431238.jpg
現在のArgentiera(アルジェンティエラ)の銀鉱山産業施設跡

興味深い話では、フランスの作家で知られるHonoré de Balzac (オノレ・ド・バルザック)も1838年に自己の経済困難に窮して資金を工面するのに、彼もまた銀鉱山を当てて一攫千金を夢見たが採掘権はすでに他人の手にあり、フランスに泣く泣く帰途したという逸話がある。事実バルザックはアルジェンティエラの銀鉱山に訪れているのである。
c0223843_175515.jpg
1900年代初頭のArgentiera(アルジェンティエラ)の銀鉱山産業施設
c0223843_191612.jpg
現在のArgentiera(アルジェンティエラ)の銀鉱山跡

c0223843_1301069.jpgもう一つの興味深い話ではこちらも有名なイタリアの画家モディリアーニで知られるAmedeo Modigliani(アメデオ・モディリアーニ)の父親はイタリアはリヴォルノ出身のトスカーナの実業家としてリヴォルノで鉱山業を営んでいたが、鉱山業の経営不振に行き詰まり、画家モディリアーニの祖父がすでに購入していた現在のサルデーニャのカルボーニア=イグレージアス県のコムーネの一つであるBuggerru(ブッジェッル)にある小さな村Grugua(グルグワ)の鉱山の採掘権と事業許可を得て、鉱山活動をしながら家族と共に画家モディリアーニもこのサルデーニャの鉱山の村に数年過ごしていた。

画家モディリアーニの父親の友達Tito Taciはその当時Buggerru(ブッジェッル)において唯一のホテル「Leon d'oro」を経営していて、
そのTito Taciの娘Medea Taciは画家モディリアーニの友達でもあり、
モディリアーニはMedea Taciの小さい肖像画をサルデーニャの小さな鉱山の村
Grugua(グルグワ)で過ごしていた時に描いている。





「Medea Taci」の肖像画(1898年)

c0223843_221246.jpg
1800年代の初頭のサルデーニャ島内ではすでに59もの鉱山が存在していた。
その後1850年から1900年代の初頭にかけてはサルデーニャの鉱業が最も大きな発展を遂げた時期で、当時は女性や子供達までもが鉱山の加工施設内で主に鉱物の洗浄や選別の仕事に従事していた。

しかし1871年5月4日Montevecchioの鉱山で女性と10歳の子供が鉱山施設内で亡くなった事件が明るみに出て以来、鉱山施設で働く人々の過酷な労働条件が取り沙汰されるようになるが、現状は依然として改善されるどころか、さらには鉱山施設内の環境衛生上の問題から生じる職業病も増え続け、就いてはイタリアで最初のゼネストBuggerru(ブッジェッル)の町で起きてしまった。
この事件はイタリア人でも知っている人は少ない。
c0223843_2294892.jpg
地下坑道に入るためにリフトに乗って下がる鉱夫たち

1904年9月4日Buggerru(ブッジェッル)の鉱山で働く鉱夫たちによるストライキが雇用主のフランスの企業
Malfidanoに対して訴えるストライキが起き、それにより3人の鉱夫が大虐殺された事件である。
彼等は非人間的な労働条件に抗議し、一日12時間の労働を8時間にし、労働に見合った賃金を要求しただけなのである。
c0223843_2433425.jpg
当時の鉱山で働く人々の環境条件は過酷であった。
特に鉱夫は坑道内のディーゼルモーターの排気ガスからくるガス汚染や粉塵は珪肺症、塵肺、肺炎球菌症などの肺疾患を引き起こし、また地下坑道のような閉鎖空間で岩盤を砕く強力な機器の使用は聴覚障害をも引き起こす。
1861年から2000年の間には1,591件の鉱山施設内での死亡事件が記録されている。
c0223843_3205222.jpg
Argentiera(アルジェンティエラ)の鉱山前のビーチCala Frana
c0223843_3361550.jpg

c0223843_337541.jpg
真夏には海水浴客と廃鉱の産業遺産巡りの人々で賑わう。夏の夜は豪華ゲストのコンサート等も催されていてここ数年アルジェンティエラは密かなブームになっている。

アルジェンティエラのピーチから2kmと至近距離にあるPorto Palmas(ポルト・パルマス)
の海岸線の目前には墓地があった。
c0223843_3434875.jpg

c0223843_3442798.jpg
私は海岸線に面したこのような墓地を見たのはこれが初めてだった。
きっとここの墓地には鉱山で働いていた鉱夫の人たちも眠っているのだろうと思う。
c0223843_3533437.jpg
Porto Palmas(ポルト・パルマス)の海岸線沿いはこの上なく美しかった。
c0223843_3552372.jpg

c0223843_3563974.jpg
こんなに淡いグリーンの神秘に満ちた岩礁群は今まで見たことがなかった。
c0223843_4301159.jpg

c0223843_4361722.jpg


ポルトチェルボに向かう帰途の車中で来年の6月頃にもう一度アルジェンティエラに戻って、あの何とも不思議な淡いグリーン色に色付く岩礁群とその周辺の海中を観察に行く事を私はすでに心の中で決めていた。





'Your Song'



<参考文献>
LE MINIERE E I MINATORI DELLA SARDEGNA Francesco Manconi
Antichi mestieri&saperi di sardegna-8 Miniere,metalli e Metallurgia La Biblioteca della NUOVA SARDEGNA
Paese d'ombre Giuseppe Dessì


いつも訪問ありがとう。
[PR]

by portocervo1962 | 2011-11-15 08:23 | Nurra


<< 豊かな時間      Porto Conte と星の... >>